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Blood line 後日談

僕の祖母の後日談を話すとしよう。

おじいちゃんの実家は
500坪の土地に石垣で囲まれた家だったらしい。

母の話では けっこうりっぱな  豪邸だったようだ。

おじいちゃんの母
つまり おばあちゃんの姑さんはたいそう気が強い女だったらしく

当時としてはめずらしい できちゃった結婚だったので
渋々結婚を許したらしいけど
やはり この貧乏娘を大歓迎したわけではないらしい。

客観的にみれば あたりまえの事。

若気の至り ひと夏の恋 しかも過ちの恋としか
 母親の立場からは 思えなかっただろう。

僕の祖母は耐えただろう

耐えるしかなかった。


私も私情を捨て 歴史学者として
彼女のその時の境遇を考えてみる


何の持参金ももたず 
乳飲み子を抱えて 
歓迎もされてない家の 大きな石垣に囲まれた門をくぐる時の
 その歳わずか17歳の娘
頼るべきは 愛する夫だけ

豊かでインテリだった祖父だが 
逆に彼に無いもの全て彼女は持っていた。
美貌 健康 生命力 ・・・

ただそれらは 理解してくれる者だれもいなかった。
祖父さへも理解していたかは疑問だ

なぜなら 自己の弱点というものは 重大な事項と考えない
それが 世の常だから

そして、ぼんぼん育ちの大学出たての祖父に
はたして 彼女の窮状をどこまで 汲み取っていただろうか?

実は 祖母はその古いお屋敷にある物全てを 嫌っていた。
掛け軸や 意味不明の洋書 骨董品の数々。

彼女は文字さへ読めない彼女は 
それらを理解する 以前に憎んだ

自分の育った環境に無いものを憎んだ

新聞記者として長崎に赴任することに決まった時はほっとした

 転勤先では 人生のつかの間の幸せな時間が 彼女を待っていた

グラバー邸のような 洋館に住み 
近隣のものはその時代にはめずらしい 電話を借りによく訪れたと言う。とにかく 粋で 派手で 貯蓄とは縁のない祖父だったらしい。彼女は自分の過去を知るものもない。やっと はじめて自分の新しい家庭を誇れる気分になり、人生はじめての 豊かさを感じた。
やがて季節が巡るように時代も流れた 終戦後 姑も亡くなり 祖父も母が16歳の時に結核で亡くなる。
親戚中が おおきな屋敷から そもそもそこに住むべき権利など無いと言い、祖母は出て行くように示唆された。
そこに固執するような彼女ではなかったが 祖父の叔母が彼女を擁護してくれた。
彼女の息子が その家を継いでいくべきで その手段として その屋敷は彼女の所有とすべきだと言ってくれたらしい。

彼女は 前述のように 眠る時間を惜しんで働き4人の子供を育て その屋敷を守った。
ただ 辛い記憶をもたらした姑が大事にしていた 家財は姑の死後 一切 焼き払ったと言う。16歳まで お嬢さんで育った母は そのことを今でも残念がっている。

祖母は3人の娘より 一人の息子に跡継ぎとして育てた。やがてはその屋敷も彼のものになることを 前提に育てられていた。

その息子は僕にとっては叔父になるのだが 彼はベニヤ加工の会社を興し 高度成長時代の波に乗り成功する。
祖母の肩書きは会社会長となり、私の葬式はさぞ盛大なものになるだろうとつぶやいた。
おおきな屋敷は石垣は無くなり つき板工場となった。
歴史を感じさせる武家屋敷は 町工場と姿を変えたのである。
僕の祖母は万人に協調性のない叔父のもとから 愛情だけを残して長女である僕の母がいる 我家で暮らすこととなった。

そして、繁栄も永遠ではなく 叔父さんの会社も傾きだした。

僕が大学6年で国家試験の勉強をしている時期だったので 昼頃起きてきた僕に異変が生じた事を伝えたのは 押し寄せる債権者達だった。 叔父の会社が倒産した。

叔父はすでに夜逃げしていた。一言も祖母に報告することも無く・・・

その後僕は神戸の医院に勤務をすることを決め 数年後両親を神戸に呼び寄せた。
まじめな性分の両親にはずいぶんと徳島で生きていくには息苦しくなっていたんだ。祖母にもともに来ることを奨めたが祖母の言葉はこうだった。
 
「私は沈むとすれば 息子とともに沈む 」


大きな屋敷も人手に渡ってしまった。
女としては すばらしい人だったが 母親としては ろくでもなかったのだろう。
母の強い魂は持って生まれて持っていたものであり わが子の胸に宿り育てられるものではなかったのだろう。

祖母を受け入れられなかった 祖母の姑の予感は当たったのかもしれない。

死期が迫る彼女の瞼の中には さまざまな光景が走馬灯のように流れただろう。

貧困のなかの幼女期
芸者に売られていって16歳の日 
夏の暑い夜
たった一人 人生最初で最後のひととの運命の出会い 
三味線の音
短い夏 
そして別れ
子を宿した自分の驚き 
東京への旅費の工面
片道切符 
命がけの恋 
出産  
初めて石垣の門をくぐる緊張 
祖父の死 
長崎でのつかのまの幸福な日々
敗戦 
高度経済成長
そして、息子の倒産 
姑への慙愧の念・・・・・

祖母の葬式は 祖母の生前の予想とうらはらにひっそりとなされた。

祖母に助けられた 祖母が命の恩人などと したって彼女の話しをするものが訪ねてくることが後を絶えない。それは 意外なことではなかった。
一番人の心の痛みがわかる人だったのだろう。心に痛みをいっぱい感じて生きてきた人だったから。

僕が 物事を客観的に見て それが 理解できるようになったのは はずかしながら 最近なのである。
やはり ろくでもない血のほうが多く流れてのだろうか。
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Blood line .

僕は時間が許された形で自己紹介を求められた時に祖母の話をする。その人生は波乱とロマンに満ちており、人の心を引きつけ 僕のBlood Lineを際立たせる。特に外国人にすると 僕という人間を記憶に残してくれるきっかけとなってくれた。

僕は四国の徳島生まれの徳島育ちで大学も徳島大学なんだ。
親戚は本当に凡庸なヘテロセクシャルばかりで、語るものはない。
そこで、僕のブラッドラインで唯一語るべきスーパーヒロインの祖母の話をするね。

祖母は徳島の貧しい家に生まれ16歳のときに芸者になったんだ。
そして初座敷で僕の祖父と出会ったんだ。
祖父は資産家の息子で慶応大学の学生だった。夏休みの帰省しててそこで芸者遊びするなんてなかなかのバカ息子だったみたい。
そこで、祖父と祖母は恋に落ちた!

しかし、季節は巡り秋になると祖父は東京に帰っていった。
そして、祖母のおなかには僕の母をもう みごもってたんだ。
そこで祖母は片道の旅費を工面し単身東京へ出ていった。

祖母にとっては一世一代の恋 しかも 命がけの恋だったんだ。
ハードな時代に生きた 心の強い オンナだったんだ。
 そこで、家族の反対を押し切って結婚した。祖父にこの女しかないと思わせたんだ。こうして話をするとただのアバズレにも見えるかもしれないけど決してそうではない、ハートも美貌もすぐれた女性だったんだ。僕のおばあちゃんは。

そして、祖父は新聞記者になり幸せな15年を送るのだが、母が16歳の時に祖父は結核で死んでしまうんだ。
その通夜に おばあちゃんは母をはじめとする兄弟4人を集めて言った。
<今日からは過酷な日々がはじまる。でも絶対に私はお前たちを守ってみせるから。>
そう語ったことを母は教えてくれた。その日から昼は観光ホテルに勤め
夜は お茶漬け店を切り盛りして働いた。祖母は1日3時間しか寝なかったらしい。そして、4人の子と 家を守った。

僕は厳しい局面に立ったとき いつもこうつぶやく。
<<僕にはあの女性の血が入っている。絶対がんばれるはずだ!絶対に負けない>>

でも、いつも はるかに 及ばないよ おばあちゃん 
すごいなぁ おばあちゃんは・・・

そして、ときどき遊び人のおじいちゃんの血が活動しだすのも事実なんだなぁ。あちゃ!

マラソンは火事場のバカ力  そしてインプラントも・・・


少なくとも市民マラソンのレベルにおいてはまず大会当日でなければ
42.195km以上は練習では 走らない。
週あたり50kmとか100kmとかの練習をしてゆくのだけど 10kmは走るのにウォームアップも含めれば1時間はかかる。 
たいていの人間は労働基準法の法規限界付近(週40時間)まで働いているのだけどそんななかで どうやって それ以上の時間を作るってゆうの。
だから 全ての市民ランナーはぶっつけ本番で大会に臨む。
で どうして普段やってないことが当日できるかって?
それは 火事場のバカ力 :大会の雰囲気で 自分の力以上のものを出さざるを得ないからなんだろう。35kmすぎれば ほとんどのランナーはガソリン空っぽの状態でグリコーゲンじゃなく 精神力を燃料に走っていく。僕みたいな落ちこぼれランナーはそれが25km過ぎればやってくる。

一方 僕の専門のインプラント治療も日進月歩の分野だ。自分のできる能力範囲内で仕事をしていれば その技術はあっと言う間に陳腐化されてゆく。いつも 自分の能力に120%の負荷を与えている。勿論失敗できることは 他の方法でリカバリーできることが前提だが。
つまり、進化しつつある臨床家はいつも現場で火事場のバカ力によって
未知の世界を切り開いている。
その未知の部分が 優れた臨床家にとっては 快楽なんだよね。

事実厳しい手術の後は 精神的にハイでその高揚感は数日続くことさへもある。 

僕にとっては マラソン完走は120%以上の負荷だよね。
だから 今回は完走できなかったんだけど。
まぁ いいや 完走できなくても 困る人はいないんだから。
精神の高揚感も似ているし 限界を超えた時点での自分の精神のコントロールの仕方で すごく学習すべき点があるのを感じる。

結局 楽しんでるんだね そんな状況を・・・

追想 2008年篠山マラソン

Dr小池のランニング日記

2008年3月2日7時30分 兵庫県丹波篠山にて

朝もや の篠山に 僕は帰ってきた。
本当に帰ってきた ・・・  そう思うと すこし 涙が出た。
河原の駐車場に車を止め 河原の空気を吸えば 23年前の 自分を想い出す。

学生時代ずっと 体育系クラブに所属していた僕は体を動かすことが 習慣となり社会人となってもその習慣は 止められなかった。それは 忍耐強く エキササイズを続けたと言うよりも ただ 体を動かすことを 現実問題として止められなかったというのが 正確な表現だろう。そこには精神力の強さというよりも むしろ麻薬患者の意志の弱さを比喩するのが 適切だろう。 
そんな理由で 仕事が終わって 見知らぬ土地での ランニングの日々がスタートした。
走り続けることには モチベーションが必要だった。26歳の僕が選んだそれは 篠山マラソンだった。そこから 3年連続して 出場した。タイムは3時間30分~50分だったと記憶している。
だが 30歳になり 結婚、歯科医院開業とともに その習慣もなくなってしまっていた。
物事には 優先順位があり 犠牲とされるものは 必ず少なからず存在するものである。
走ることは 本当に大事な要素だったかもしれない。しかし、1本ぐらいギターの弦が切れたとしても そこそこの 音楽は 奏でるものである。 その 音楽に 不満を感じずに 日々を黙々と 生きてきた自分があった。そして20年の月日が流れた。

今から4ヶ月前 僕の中で何かが 変わった。
自分の心の中の 和音で 何か 足りないものが あることには 薄々気づいていた。
ある夜 仕事が終わって いつもは 最短距離で 職場から 自宅まで とぼとぼ走るのだが その日は 海岸線のルートに向かっていた。 それは 決心 決断 そういうたいそうなものでは なかった。もう決定事項を 無意識のうちに行動に移した 自分を発見した。
その時 もうひとつ 胸の中に見つかったもの それは あのモチベーション
篠山マラソンだった。早春にある 兵庫県で最も大きな市民マラソン。
その日から ほとんど 毎日10km~15km 走るようになった。
僕の心の中の和音は すこしながら ましな アルペジオとなっていた。

老いを受け入れることを 必要以上に納得し 必要以上にあきらめていた僕は
この4ヶ月間で ささやかな自信を回復したようだ。
しかし 大会二週間前の夕刻に12才の娘と三宮で待ち合わせたとき すこし 寒気を感じた。あっ やってしまった! その瞬間そう感じた。
その瞬間に風邪をひいた事実がわかった。当然咳が出てくる。熱がでる。寝込むことはないけれど 走ることはできない。 僕は仕事を終えると すぐ布団にもぐった。 ギャオスの超音波で切り刻まれた 体を じっと海底で治癒するのを待つ ガメラみたいに。
1週間すぎても まだ咳はとまらない。焦燥・そして僕は敗北宣言を周囲に告知せざるを得なかった。
篠山マラソン 棄権である。
昨晩 3月1日 大阪で学会があり 親睦会も終わると午後10時も回った。
帰宅した 僕の行動は意外にも 明日の マラソンの準備だった・・・・
本当に 嘘偽りなく 自分自身が自分の行動に意外だった
すでに決定事項のように 僕はシューズ ウェア タイガーバーム アイポッドを用意しはじめた。 僕はいつも決断しない そして流される しかし、いったん行動をはじめると 意外としぶとい。どんな ろくでもないものにも わずかながらも美点はあるものだ。 

結論を言えば 36km地点で 時間制限で 完走ならず。
回収バスで寒さと疲労に震えスタート地点に戻った。
もう完走した人々が 明るい すがすがしい顔で完走賞品のメダルを胸に帰途につくところをすれちがう。 自信がなく 情けない自分がそこにあった。
不思議なことに この気持ち この空気 なんか懐かしい気がした。そう それは 10代の僕にあった大気の臭い 胸の想いなのだ。
なにをやっても ろくでもなく 明日につながる何も見いだせなかった かっての非力な僕が常に抱いていた想いだ。
そんな 想いは 意外に 結構  その頃に両親と暮らしたあばら家へ 帰ったような 安堵感をも 感じさせてくれたのは 生まれついての楽天家だからだろうか。

考えれば 20余年の歳月を経て ここ篠山を目指して走り出し 直前に寝込みそれでも
無謀な闘いに挑み 挫折することは 単に偶然とは 思えない。まさに僕の行動パターンなのだ。僕が生まれてきた時から時限爆弾のように 僕の胸深くに設定されていたとも 思える。仮にその舞台が 篠山でなくとも マラソンでなくとも 僕は同じ様な 行動をとっていたとも思う。

僕と言う流木は形を変えつつもこの地に流されることが必然だったのだろう。

そして 明日 仕事の後には スニーカーをはきまた 走り出す自分の姿があるだろうことも 必然だろう。
プロフィール

朝霧インプラントセンター コイケ歯科医院

Author:朝霧インプラントセンター コイケ歯科医院
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